しろまち堂~こちらも本館ですがただいま休館中の旧館です~

旧ブログ名は『ワタシノスキナコドモノ本』、本の紹介や本に関するアレコレを語る、『しろまち堂』のメイン館でしたがただいま休館中のため、こちらは旧館でございます。『しろまち堂』は『本館・新館』のほか、『~音楽・映像館~』、『~写真・旅行館~』『~縁側~』もございます。煩雑ですがあわせてよろしくどうぞです。

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赤毛のアン 村岡花子訳 ・ その3

延々と赤毛のアンの紹介が
続いております☆


内容(「BOOK」データベースより)
ちょっとした手違いから、グリン・ゲイブルスの老兄妹に引き取られたやせっぽちの孤児アン。初めは戸惑っていた2人も、明るいアンを愛するようになり、夢のように美しいプリンス・エドワード島の自然の中で、アンは少女から乙女へと成長してゆく―。愛に飢えた、元気な人参あたまのアンが巻き起す愉快な事件の数々に、人生の厳しさと温かい人情が織りこまれた永遠の名作。

著者はL.M.モンゴメリさん
訳者は村岡花子さん
出版社は新潮社です。
ちなみに今回紹介するのは2008年の改訳版。
お孫さんが省略部分の追記訳をいれて完訳になったようです。

前記事は
その1その2

モンゴメリ作品は
コミカライズされた作品が「幻想綺譚」に収録。
そのほか
青い城

丘の家のジェーン

このブログで紹介しています。

あ、ちなみに
今日書きたいなーと思っていたのは
村岡訳に限らずの
アンの話。

なので
どこで書いてもいいようなもんなんですけどね(笑)。
読み比べが相変わらず進んでないので
ここで言ってしまえというような内容ですf(^-^;

「アンの感性というのは本当に素晴らしい」
というようなことをワタシの尊敬している方がおっしゃっていた

過去にまた聞きしていまして。
(回りくどい表現でゴメンナサイ!)

ともすると過敏では?と思うほどのアンの繊細な神経が
(これは、アンに初めて会ってからまだ丸一日もたっていないようなマリラが気づくほどなので
かなりはっきりした資質でしょう)
どうして過去の11年で痛めつけられなかったのか?
いや
正確に言うと
痛めつけられたかもしれないけれど
とりかえしのない傷をつけずにすんだのか?
がワタシはちょっと気になったのですね。

赤ん坊のころから余所の家で育ち
ひたすら年下の子の面倒をみて(&おそらく家事の手伝いもめいっぱいして)
家に余裕がなくなったらまた別のところへやられる…

都合がいい間は一緒に住んでもいいけれど
苦難を分け合うほどの愛着はなく
アンに対しての愛情は乏しく
おそらくは彼女の感性を理解するなど考えるべくもない
そんな生活を11年。

衣食住は最低限かもしれないですが、まあ保障されていたようですから
虐待とはいえないかもですが
心の面・愛情の面では
マリラが短い身の上話から聞きとれるほど
貧しく悲しい生活だったわけですよね。

それなのにアンは
ひがむこともなければ
憎しみを育てることもなく
手に入らないものは諦め、持ち前のよさを損なわないよう生きてきた。

マリラはアンをこっそり観察して
『身内はりっぱな衆だったに違いない』

おそらくは亡くなった両親を引き合いに出しほめていますが
アンのいい性質というのは
遺伝というより、自分の想像力を
惨めな身の上を守る鎧として使っていたために
損なわれなかったのではないかしら?
と思うのです。

やせっぽちで、美人だとかかわいらしいと表現される風貌ではないため
容貌に関してのほめことばはまずもらえない。
ならば想像の中で自分を美人にしよう。

名前は何の変哲もない、だれも見向きもしないような平凡な名前
ならば空想で自分の名前を変えよう。
それとも、つづりを変えてみたら少しは上品にみえるかしら。
そんなふうに自分の気持ちをひきたてることで
愛されていないと感じる寂しさを(おそらくは無意識に)なぐさめていたのではないでしょうか。

たとえばグリン・ゲイブルスで暮らすようになっても
しばらくの間、アンの服装は質素なものでした。
それに対してアンはがっかりしたと正直に口にだしても
きれいな服をねだったりはしません。
そのかわり、空想で自分の服を飾るのです。
(もしくは帽子を花で飾ったり)

他人から見て少々突飛かもしれませんが
そうすることで自分の中のバランスをとり、満足に近づけ
機嫌良くしていられるアンは
自分の空想と言葉で自分の世界を飾りつけ
おのれの心の飢えを満たしていたのではないでしょうか。

それが
グリン・ゲイブルスで暮らすことで
優しくあたたかいマシュウという聞き手に自分の話すべて(とどのつまり自分という存在全て)を
たっぷりの愛情で受けとめてもらい
最初はマシュウに、そしてやがてマリラに美しい服を用意してもらえるようになるのです。

マリラは口うるさく、厳しいとはいえ、
何かあったときにはおいしいご馳走を用意してくれたり
事が起きたときは矢面に立ってかばってくれたりと
実際的な愛情を寄せてくれています。

そんなふうに
精神的にも物質的にも満たされて何年も過ごしているうちに
大げさな表現で身を守ったり自分を飾ったりする必要性がなくなってきたのではないでしょうか。

4年たち、15歳でマリラより背が高くなったアンは
「前の半分もしゃべらないじゃないの。それにぎょうさんな言葉だって、あまり使わないようだね」
とマリラに言われ
「なんだかもう、大げさな言葉は使いたくなくなったのよ」
と答えています。
アンは(そしてマリラも)大人になってそのような言葉が不必要になったのだ
ととらえているようですが
ワタシは
アンの世界が、外的にも内面的にも
華やかな表現や言葉という鎧で身構える必要がないほど
安心で安全なものになったため
不必要な装飾を必要としなくなったように
思えて仕方がないのです。

(そしてマシュウは亡くなる前日に
自分にとってのアンの価値をしっかりと言葉で伝え
役目を果たし終わったかのように
人生の幕を引きます)

人は
最初から持っているものは当たり前と感じますが
ないところからスタートし、後に獲得したものは
意識し、大事にするものです。

アンはグリン・ゲイブルスで満たされることによって
大げさな表現や言葉遣いを手放し
家庭に対する愛情と思いやりを手に入れました。
それは
褪せることも褪めることもなく
シリーズ全体を下から支え
読者の心をもうるおしてくれる
豊かな流れとなっています。

愛されることの大事さを
快活さにくるんで教えてくれる
アンの11歳から16歳までの5年間を
どうぞお楽しみください。
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